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III章:顎関節症を科学の目で考えよう。

本書では顎関節症の予知性のある治療を目指しています。現在の状態から将来を予知するためには、ある一定の法則性を前提とする必要があります。従来、医学とか歯科医学においては、ある権威が行っている診断法や治療法を一般医が踏襲するという方法がとられていましたが、残念ながら顎関節症の治療においては今だこの権威というものが存在しません。しかし、治療の必要な患者は多数存在しもはや一般の歯科医が手を借さなくて良い時代は過ぎたように思われます。ですから必然的に我々開業医には自分の診療所に助けを求めて来院する患者さんのために、自分の頭で考えた責任のある診断と治療を行う事が(言いかえればこれは医療における自由裁量権に他なりませんが)要求されます。

『自分の頭で考える』為にはどうするかという問いに答える為には、現代の科学の基礎を作ったガリレオ・ガリレイ(図Vー1)や相対性理論のアインシュタイン(図Vー2)(私が個人的に好きなのでお許し下さい)の考え方を知る事は有効と思われますので、彼らの考え方の中から『科学の目』というものを見て行きたいと思います。

プトレマイオスの天動説に対するコペルニクスの地動説を擁護したガリレオはキリスト教会に宗教裁判にかけられましたが「それでも地球は動く」と言ったと言われます。(図Vー3)今の私達は学校で、地球は太陽のまわりを回る惑星だという事を習って知っていますのでそう信じますが、もし天動説を習っていたとしたら、自分の力で地動説を導くことが出来るでしょうか。私は顎関節症の問題を考えていくに際してもこの点がカギだと思います。

それではガリレオがなぜ宗教的な圧力にもかかわらずコペルニクスの地動説を擁護したのかを考えてみましょう。その理由はそうむつかしくはありません。まず、プトレマイオスのモデル(図Vー4)とコペルニクスのモデル(図Vー5)を比較すると、星を光の球として考えるかぎりにおいては決定的な違いはないようです。しかし星を実体としてとらえるとその違いが明らかになります。金星は明けの明星とか宵の明星とか言われるように常に太陽のまわりに存在し、月とか木星等のように真夜中に天高く光るということはありません。プトレマイオスのモデルが正しいとすれば、金星は常に地球と太陽の間に存在しなければならないことになります。ガリレオが他の人と違う所は自分で望遠鏡を作成し、星々を自分の眼で見た事です。そうすると月には山やクレーターが存在し、地球に似た特徴をもっていましたし、木星には有名なガルレオの衛星がまわりを公転しているのが見えました。1610年にガリレオは望遠鏡を金星に向け凸状の形から三日月状の形へと進むことを観測しました。実際に金星を写した写真を見てもわかるように金星は見かけの大きさが、三日月状の時には木星ほどもありますが満月状の時は火星くらいに小さくなっています。(図Vー6)この観察結果からコペルニクスのモデルが真理だと言い切る事は出来ませんが、プトレマイオスのモデルは絶対まちがいであることは明らかに言い切る事が出来ます。なぜならばプトレマイオスのモデルでは金星は三日月状にはなるけれども、決して満月状にはならないからです。しかしコペルニクスのモデルでは月と同じように満ち欠けをします。太陽と地球の間にある三日月状の金星は近くにあるので大きく見え、太陽の向こうにある満月状の金星は遠くにあるので小さく見えます。これを要約すると次のようになります。ガリレオは『もし惑星系が太陽中心的であるならば、金星は満ち欠けをするだろう』という仮説モデルに対して自作の望遠鏡を用いてテストした結果、金星の満ち欠けを観測したので惑星系は太陽中心的であると考えたのです。しかしこれは厳密にはまちがいでして太陽中心説は否定されないで残った。つまり反証されなかったというのが正しい結論になります。これを仮説演繹法と言いますが、現代の科学的知識というのは、いろいろな学者が豊富な経験や知識をもとに大胆な想像力を働かせて提出した仮説モデルの、テストにより反証されないで残った知識の全体であると言うことが出来ます。ですから観察や実験によってテストできないものは科学の対象としては不向きと言えます。

アインシュタインもまったく同様の思考方法で相対性理論を作り上げました。特殊相対性理論は『ガリレオの相対性原理』と『光速度不変の原理』の2つの前提から導き出されました。相対性原理というのは力学的な慣性の法則のことで、時速200qの新幹線の中で進行方向に時速30qで走れば外にいる人が見たとすれば、時速230qで走っているように見えるという風に、速度は足し算や引き算で考えられるという原理です。光速度不変の原理というのは、光の速度は足し算も引き算も不可能でいつも一定であるという原理です。つまり時速200qで走る新幹線の中で見る光の速度も外から見る光の速度も同じだということです。この一見矛盾する2つの前提から従来の時間や空間の概念をくつがえすような光の速度に近くなると、時間が遅れたり長さが縮んだりすることや有名なE=mc(核エネルギー)等の結論が生まれました。一般相対性理論はこの考え方を等速運動(慣性系)から加速度運動(重力系)に拡張したもので『一般相対性原理』と『重力質量と慣性質量の当価原理』という2つの前提から導き出されました。一般相対性原理というのは「すべての自然法則はあらゆる座標系に対して成り立つような等式によって表現されるべきである。すなわち位意の座標変換に対して共変(これを一般共変とよぶことにする)な等式にによって書き表されるべきである」という原理ですが、自然の法則は座標の人為的な選び方には無関係なはずですので、これは明らかな事と考えられます。当価原理というのは「自由落下により重力は局所的に消し去ることができる」という原理です。映画の“APOLLO 13”では、NASAのKC103号機を使い、急速に上昇し放物体状の自由落下をさせて無重力状態の撮影が行われています。私は九州のスペースワールドのフリーフォールという乗り物で経験しました。身体がフワッと浮いた感じで変な気分でした。この2つの前提から導き出された結論は、重力は物体のまわりの空間の歪みに他ならないという事です。物質があればその周りの空間は目に見えずとも歪んでいるのです。この理論は水星の近日点移動の観測や皆既日食の観測で、本来太陽に隠れて見えないはずの星からの光る写真に捕らえることに成功した事などで実証されました。そして近年ではブラックホールやビックバン理解などの理論的根拠となっています。

我々の歯科医学も科学の一分野ですからこの顎関節症についてガリレオやアインシュタインのようなセンスで考えるならば、現在困難と言われている顎関節症の診断や治療そして原因究明が可能になるのではないかと思われます。

まず第一に生命は物体で出来ていますので物理的な性質を有しています。また、地球上に存在しているため常に重力の影響を受けています。これを相対性理論的センスで考えると、我々は一般的な宇宙空間と異った地球という物質により歪められた空間に住んでいるという事になります。一般的な宇宙空間では物質の基本的性質は等速直線運動になります。しかし、我々の住んでいる空間では下向きの放物線状の加速度運動が基本的性質になります。つまり等速直線運動に下向きの重力加速度が加った状態になるわけです。顎位とか咬合とか顎運動を考える上ではこれを前提にしなければならないと思われます。

第2に顎関節症はなぜ治るのかという命題があります。なぜなら治る必然性がないのに治る事は期待出来ないからです。生命は自然の法則に調和しながもらそれからの自由を獲得しています。自然から生れながらも完全に従属してはいないという不思議な性質があります。生命のないものはすべて自然の法則に従わざるを得ません。植物は引力に逆らって天に向かってのびていますし、動物は自分の意志で移動できますが無性物はそこに存在するという事しか出来ません。私は「生命あるものは新陳代謝をする」という前提が、なぜ治るかを考える上で重要だと考えています。なぜなら新陳代謝をするからこそ治るからです。例えば手の指をナイフで切ったとしても1週間もたてば治ってしまいます。では病気にはならないのではないかということになりますがそうではありません。「繰り返し加わる力、感染、栄養障害により新陳代謝は阻害される」というもう一つの前提が存在します。生命は新陳代謝をしなければ存在を維持出来ないので、新陳代謝が阻害されるということは消滅の方向に向かうことになります。私はこの状態が病気ではないかと考えています。本来ならば一時的な損傷があっても治癒するのですが阻害固子が長く存在すると、本来の治癒が阻害され結果として病気として固定されるのではないかと考えられます。顎関節症の場合その阻害因子というのは、一日中我々の身体に働いている重力と関係していると考えられます。

以上の考察から導かれることは、我々人間には、物理的な性質とともに生命としての性質があることです。この2つのアインシュタインのようにそれぞれ物質の原理と生命の原理と呼ぶことにします。そしてこの2つの前提から、顎関節症について考察を進めてゆきたいと思います。

1.物質の原理について

最初に物質の原理を前提とした考察を行います。まず図Vー7@,Aのようなモデルを考えます。上部頚椎、頭蓋骨、下顎骨、舌骨の4つのパーツから成り立っています。それぞれのパーツは剛体としての物理的性質を持っています。基本となる頭蓋骨は上部頚椎に支えられています。そして下顎骨は顎関節を介して頭蓋骨に接続しています。そして舌骨は、下顎骨の下に位置しています。実際には、これらのパーツは、閉口筋である咬筋(B)、内側翼突筋(G)、側頭筋(C)や開口筋である外側翼突筋(E)、顎二腹筋(D)、舌骨上筋群や舌骨下筋群、そして頭蓋骨の運動を起こす後頚筋群、僧帽筋、胸鎖乳突筋等(F)によって結ばれて、それぞれの筋のベクトル力によって、上下前後左右の動きが可能になっています。ですからここでは簡略化の為に、筋肉は力のベクトルに置き換えて考えることにします。図Vー8・aにおいて、閉口筋である咬筋と側頭筋のベクトル力が発生したならば、その合力の発生源は上顎歯列より後方にある為下顎骨は第2大臼歯部を支点として上前方に回転します。実際には図Vー8・bのように関節円板が下顎骨からの圧力を受けて回転運動を阻止する働きを行います。これを関節円板の受圧作用と呼びます。また図Vー9・aにおいて、開口筋のベクトル力が発生したならば下顎骨は下方に落下しようとします。実際には図Vー9・bのように外側靭帯の張力により落下運動に制限力が加えられます。これを外側靭帯の牽引作用と呼びます。牽引された下顎骨は頭蓋骨を下方に引きますので頭蓋骨は前方へ回転します。これを阻止する為には後頚筋のベクトル力が必要になります。

以上の考察からわかることは、開閉口筋運動がスムースに行くためには顎関節における関節円板の受圧作用と外側靭帯の牽引作用が必要不可欠であることです。そして図Vー10・a,bに見られるように関節円板と外側靭帯はお互いの長所と欠点を補いながら下顎骨の回転滑走運動を制御しています。開口時において、舌骨を介して伝わる下顎骨に対する下方のベクトル力と後頚筋が作用する後頭骨に対する下方のベクトル力は同時に発生する為に下顎骨の落下運動と同時に上部頚椎を支点にした頭蓋骨の後方回転運動が起こると考えられます。閉口時には逆に下顎骨の上方運動と頭蓋骨の前方回転運動が起こります(図Vー11・b)。この事は意外と知られていない事ですが、あくびをする時など自然と顔面は上を向きますし、むちうち症などで頚椎を損傷した時に開口時や閉口時に頚部に痛みを感じることから、実際においても、開閉口運動に上部頚椎が関与していることが考えられます。

さらに作図により仮想的な下顎運動軸を求めますと、上部頚椎歯突付近にその存在が認められます(図Vー11・b)。この軸は頭蓋骨、すなわち上顎運動の軸となっている所ですので、上下顎の相対運動は合理的な共通の軸をもつことになります。また上下顎歯列が共有する咬合平面がこの運動軸をその平面内に含んでいることも合目的的な事と考えられます。そうすれば開閉口運動のみならず、前後左右的な滑走運動にも都合が良いように思われます。実際にMMJ1Eを用いて観測した例(図Vー12・c、d)でも、頭蓋骨(上顎骨)を基準とした下顎の運動軌跡において歯突起部に回転軸の存在が認められます(図Vー12・a)。同様に下顎骨を基準とした上顎の運動軌跡(相補下顎運動)においても同じ部位に回転軸が認められます(図Vー12・b)。なぜこの部位が回転軸すなち不動点になっているのでしょうか。ちょうどこの部位には生命維持のために重要な延髄下部や脊髄が存在します。神経組織は圧迫力よりも牽引力に対して弱い構造になっていますので、この部位がフラフラした移動点だとしたら顎運動のたびに障害を受けることになります。また下顎の咬頭頂と顎関節を通るスピーのカーブは顔面骨の前頭部に中心点が存在しています。このことも歯列や顎関節が受ける咬合圧が脳頭蓋や上部頚椎に及ぶことなく、耐圧構造の確立している顔面骨内で処理されるために合理的な事と考えられます。以上の物質の原理を前提とした考察を基に、コペルニクス的センスで顎運動の基本を記述すると次のように、「上顎骨の存在する頭蓋骨は上部頚椎を支点として回転するので、外側靭帯の付着する関節結節も同じ回転(公転)軸をもつことになる。外側靭帯の下顎頭への付着部は、下顎頭の回転(自転)中心である関節円板の付着する外側極部付近に存在するため下顎頭は外側靭帯に牽引されながら滑走(公転)し、同時に(自転)します。この構造を太陽系に例えるならば、生命維持のために重要な延髄下部や脊髄の存在する上部頚椎が太陽(中心軸すなわち不動点)で、関節結節部が地球、下顎頭が月に相当します。このように顎運動は公転軸と自転軸とで組み合わされた自然の力学的運動に調和したメカニズムにより成り立っていると考えられる」となります。

この理論を基にすると、次のような事が予測されます。

1.顎関節が異常をきたし関節円板の受圧機能が損なわれた場合は下顎の位置の変化が生じる。そしてその方向は後上方であろう。

2.下顎頭の運動は外側靭帯につり下げられた振子運動が基本であるのでアキシオグラフ等で運動経路を側定するならば下向きに凸な円弧の振子運動の終点にICOP(咬頭嵌合位)が存在するはずである(図Vー12・c)。そして顎関節症患者はこの原則に従わず運動経路の不正とICOPの位置異常が見られるであろう。

3.下顎の位置異常を生じた場合は、表面筋電図等で筋活動を測定するならば、咬筋と側頭筋の活動に不調和が見られるであろう。

4.顎関節症患者の全身症状の発現には上部頚椎が関与しているであろう。

2.生命の原理について

ここまで考えて来ますと、顎関節症も何だか簡単に見えて来ます。生命の原理によれば新陳代謝を阻害する3つの因子は、繰り返し加わる力,感染,栄養障害ですが、顎関節症においては感染や栄養障害は一応除外されると考えますので、力の因子が重要になってきます。この力の因子こそ物質の原理で考察した事に他なりません。力学の法則により力が加わったとしてもその力は物体に加速度を与えてしまえば消滅してしまいます。ですから生物はすぐに傷害を修復してしまいます。しかし我々の住んでいる地球はアインシュタインによれば空間が歪んでいるために永遠に重力加速度という力を受け続けなければなりません。生体はこの重力加速度に対して、骨格,靭帯,関節組織等という構造物により対抗しています。本来生命体は軟組織であったわけで、海中から海上に進出する過程で重力加速度に対抗できる骨格,靭帯,関節等の構造物を獲得しました。我々人間という生命体の本質である脳や脊髄は頭蓋骨や脊椎骨に守られながら脳脊髄液という海の中に浮かんでいます。そして他の組織もやはり血液という海の中でホメオスターシスが維持されています。生命の進化はこの重力加速度に適応する形でわれて来たと考えられますから、本来、顎、頭蓋,脊椎骨等は脳や脊髄を保護する構造と機能を有しているはずです。そしてそれらを動かす筋肉組織も重力加速度に対して適応しているはずです。もし筋肉が重力加速度とケンカしたら、とてもかなうはずはないからです。身体の中で頭部は大きな重量をもっていますので、頭蓋骨の支点である上部頚椎や重りのようにつり下がった下顎骨の偏位により、頭骨の重心がずれたとしたら、その影響力の大きさは容易に想像されます。つまり重力が絶え間なく続く障害力となり得るわけです。

医学的に考えるならば、我々の身体構造がこれらの力の因子に対して調和している状態を生理的であるということが出来ます。顎口系について言えば、その構成要素である、上下顎歯列,咀嚼筋,顎関節は中枢及び末梢神経系の支配により生理咬合系を構築するため、その三者の調和した状態を生理的であるということが出来ます。力学的に調和しているということは、生命の原理による力の阻害因子がないことなので、痛みとか苦痛等といった臨床的な症状は存在しないと考えられます。これを論理的に表現するならば、三者の調和→生理的→症状(−)・・・@という論理式で表わされます。この式が真であれば、対偶も真になりますので、症状(+)→病的→三者の不調和・・・Aという論理式も意味のある式と考えられます。

そろそろこの章の結論になります。我々が臨床で患者さんを治療する場合、その訴える主訴が出発点になります。診断を行うに際して、Aの式を応用するならば、その症状(+)に対して三者の不調和があれば病的であると言えるということになります。そして治療に際して、@の式を応用すれば、三者の調和を目標として治療を行えば生理的状態に回復し、最初に訴えた症状は消退するであろうという予測が可能になります。つまり、診断の対偶が治療になりますので、診断が正確であればあるほど治療も正確になることになります。つまり式Aを診断学の定理と名付けるならば式@は、治療学の定理と名付けることが出来ます。

こうして、ガリレオやアインシュタインと同じ思考方法を用いて、物質の原理と生命の原理から、診断学の定理と治療学の定理を導き出しましたが、この理論が実際に意味があるかどうかはテストが必要になります。それでは、この考えを基にした診断と治療という観点から、実際の顎関節症の症例を続けて共覧したいと思います。

症例5.左顎関節closed-lock(左側下顎偏位、左下顎歯列の圧下)

患者:長◯○◯○ 43才男性

初診:平成1年2月1日

主訴:開口障害及び疼痛

家族歴:既往歴:特記事項なし

現病歴:初診約25年前より圧顎関節にクリック音を認めていた。約5年前より閉口時に左顎関節症にひっかかりを感じるようになった。初診日の朝起きて煙草を吸おうとしたところ痛くて口が開かず煙草がくわえられなかった。某歯科にてマイオモニターを20分かけたが著変しないため、当院に来院した。

現症

全身所見:直立時左肩が下がり頭部は右に傾斜していた。下顎は左に偏位していた。

顎運動に関する所見:自力開口は約12mmで左右側方運動は不可能であった。強制的に開口を試みたが疼痛のため不可能であった。

診断:急性の開口障害の原因が外傷性のものではないこと、及びクリック音の既往があることから左顎関節のclosed lockと診断した。

図Vー14写真@が初診時の顔貌所見で、症例4と同様に写真Aのようにわりばしを用いピポットにより、左側下顎頭を右前下方に牽引し、続いて徒手で整復を行いました。すると写真Bのように開口可能となりましたが、写真BCのように閉口した状態で左側の上下歯列間に空隙ができました。写真Dは初診時の顎関節x線写真ですが、写真EFのように顎関節整復後は左下顎頭は前方に移動しているのに対して右下顎頭の位置変化はあまりみられませんでした。写真Gのベリチェックを用いて、術後に対する術前の下顎頭の位置を比較すると、左下顎頭は後上内方に位置していました。この偏位は関節円板が前方転位したために関節円板の受圧機能が失われて起きたものと考えられます。そこで写真Iのように頭蓋骨模型を用いて実験的に左の顎関節において関節円板を前方転位させ、その状態で写真Jのように上下顎の歯列を咬合させるべく下顎の歯列を新たに作成しました。写真Kと写真Lは関節円板が前方転位した状態と復位させた状態を比較したものですが、復位させた写真Lでは本症例の写真Mと同じように上下歯列間に空隙が生じました。そして、写真Mのベリチェックを用いて、下顎頭の位置を比較すると、これもやはり本症例の写真Hと同様に左顎関節の後上内方への偏位が見られました。写真OPは術前の症例と実験例の歯列模型の比較ですが、いずれも上顎歯列の正中に対して下顎歯列の正中は左に偏位しています。そして写真QRは復位させた状態の比較ですが、いずれも上下顎歯列の正中は一致しています。この観察結果は物質の原理から予測されたものと矛盾しないものと考えられます。つまり関節円板の受圧機能を失うことによって下顎位の変化と上下歯列の咬合関係の変化が起こっているということです。症例4の場合は、受傷直後であったために顎関節の整復により上下歯列の咬合関係はすぐに改善されましたが、この症例はクリック音の自覚より25年も経過しているため、すでに主として下顎歯列が圧下されていました。その為治療においては、その圧下している部分を補綴により補う必要性がありました。写真20は矯正治療と補綴治療が修了した時の顔貌所見ですが、写真21のように椅子に座った状態で下顎安静位をとらせた状態で下顎神経を電気刺激を行って誘導される顎位を指標にして治療を行いました。写真22〜27でわかるように新しく与えた咬頭嵌合位と下顎神経の電気刺激位で誘導された顎位は一致しています。この状態で咬筋と側頭筋の筋活動は図28で示すようにほぼ左右対称であり、アキシオグラフによる下顎頭運動経路は左右ともに前後運動、開閉口運動、側方運動において良好な可能性を示しています。

この症例は関節円板の受圧機能について注目して述べてきましたが、次の症例は下顎の位置異常と筋活動の関連について見てゆきたいと思います。

症例6.右顎関節closed-lock(右側下顎偏位、右側頭筋過緊張)

患者:角○恵○ 33才 女性

初診:平成1年11月9日

主訴:開口障害及び右顎関節痛

家族歴・既往歴:特記事項なし

現病歴:初診約2年前より右顎関節にクリック音を認めていた。クリック音は軽くなって来ているが、逆に顎があけにくく痛みを生じるようになり、当院に来院した。

(1)全身所見:肩や首がよくこる。疲れると頭痛がおこる。(2)顎運動に関する所見:自力開口は約30oでアキシオグラフ所見では前方や側方運動は制限は認められず、開口時のみ制限が認められた。

診断:急性の開口障害の原因が外傷性のものではないこと、及びクリック音の既往があることから、右顎関節のclosed lockと診断した。

この症例も症例4や症例5にピボットと徒手にて顎関節の整復を行いました。術前の図Vー15写真@の状態から術後の写真Aの状態へと開口量は増大しました。術後に対する術前の下顎頭の位置を比較したところ、写真Bのように右下顎頭は右後方に偏位していました。この状態でタッピングさせた所、写真Eに示すように右側頭筋の活動は著明に認められましたが他の3筋の活動は抑制されていました。そして写真Fに示すアキシオグラフ所見では左側ではふり子運動による下向きの円弧の終点に咬頭嵌合位の下顎頭の位置が認められましたが右側では開閉口時の運動経路に異常が認められました。この症例でも顎関節の整復後は上下歯列間に空隙が生じたため、写真Dに示すように斬間的に咬合面の修復を行いました。その結果写真Gに示すように咬頭嵌合位でのタッピングにおいて咬筋、側頭筋の筋活動も回復し左右対称性を示しました。写真HIは矯正及び補綴治療終了時の所見であるが、写真Iの咬頭嵌合位の状態では上下顎の正中は一致しているのに対して、写真Hの最後退位では下顎の正中は右に偏位しているのがわかります。写真Kは術後のアキシオグラフ所見ですが、右側に見られた開閉口時の異常な所見は見られず、矢印で示す咬頭嵌合位の下顎頭の位置は左右とも振り子運動による下向きに凸な円弧の終点に位置しています。写真Jは最後退位でのタッピング時の筋活動所見を示していますが、側頭筋の活動が著名に見られます。これと対照的に咬頭嵌合位においては咬筋と側頭筋の活動が左右対称時に認められます。この結果は側頭筋の作用ベクトルが後上方であることとの関連性を示していることになります。

このように適正な下顎位は咬筋と側頭筋の調和のとれた活動により誘導された位置であると考えられます。この結果を基に術前の状態について考察するならば右顎関節の障害による関節円板の受圧機能の低下によってもたらされた右下顎頭の後方偏位に、右側頭筋の活動が対応していると考えられます。この右後方に偏位した位置は外側靭帯の牽引作用によってもたらされる位置よりも後上方にあるため側頭筋は重力加速度に対して常に対向した活動をよぎなくされると考えられます。その結果として右側頭筋の筋疲労により筋収縮性の頭痛となることは容易に想像されます。そしてこの患者は治療により頭痛や肩や首のこりが軽減したことから、物質の原理で考察した上部頚椎との関係が実際の患者さんにも起っていることが推察されます。

以上見てきました症例5及び症例6において物質の原理に基ずいた予測事項はほぼ十分に観察されたと思います。関節円板の受圧作用や外側靭帯の牽引作用が良く理解されたと思います。

次はその治療に3年間を必要とした顎関節症の難症例に対して、物質の原理と生命の原理から導き出された診断学の定理と治療学の定理をいかに応用したかについて見て頂きたいと思います。

症例7.顎関節症の難症例(MPD症候群、顎関節内障、下顎後方偏位、側弯症、頚椎障害)

この患者は大学病院で顎関節症1型(咀嚼筋障害)と診断され、スプリントによる咬合挙上の治療を受けていました。当院には歯の治療ということで紹介され来院しました(図Vー16・a)。病歴を見ますと妊娠中に歯が悪くなり、抜髄や抜歯の治療を受け、余り歯を使用することが出来なくなり顔の表情も変わって来たとのことです。(図Vー16・b)図Vー17・aは大学病院初診時の時の全身所見ですが、頭頚部の症状のみならず両腕、両手、背部、両足等にしびれ感等の症状が見られます。スプリント療法を受けたにもかかわらず図Vー17・bに見られる様に当院受診時に症状の変化は認められない様子でした。図Vー18写真@〜Eに見られる口腔内所見は、歯科医院を受診される一般の患者さんとあまり大差ないものでしたが、冠の除去や抜髄のあとがたくさん見られました。特徴的な事は写真FGに見られるように、直立時の姿勢が悪く身体が右に傾いていました。このようなバランスの悪い姿勢だと重力加速度の影響で自身をささえる筋肉は常に緊張を余儀なくされていると思われます。写真FGは初診時のものではないのですが、この患者は症例3のように下顎位の修正だけではなかなか姿勢の改善は見られませんでした。そして症状は症例5や症例6のように顎関節痛や開口障害などの顎関節症の主要な徴候は著名でなく、頭痛やはきけやうまく咬めないといった漠然とした内容でしたが、日常生活に支障をきたす程の大変なものでした。診断学の定理は『病状(+)→病的→歯列・筋活動・顎関節の不調和』ですからまず、表面筋電図による咬頭嵌合位での筋活動の診査とアキシオグラフによる下顎頭の運動経路の診査を行いました。まず初診時の筋電図所見ですが安静時において側頭筋の自発的な活動が認められ、咬頭嵌合位での咬みしめ時に、側頭筋の著名な活動が認められました。それに対して咬筋の活動は抑制されていました(図Vー19)。すアキシオグラフ所見においては左右とも運動経路の異常が認められました。図Vー22写真@Aは下顎神経の電気刺激法により誘導された下顎位を示しています。写真Aをよく見ますと下顎歯列の近心斜面に咬合接触が見られます。つまり咬合により下顎は遠心に誘導されると思われます。図Vー21は術前の咬合嵌合位を求めて下顎位での筋活動を比較したものですが、求めた下顎位では筋活動の調和が認められています。

以上の結果を診断学の定理にあてはめるとこの患者には歯列・筋活動・顎関節の三者に不調和が認められるため、病的な状態すなわち顎関節症として診断されます。治療学の定理によれば『歯列・筋活動・顎関節の調和→生理的→病状(ー)』ですのでまず下顎の後方偏位の原因となっている,写真BCに示す前歯部の干渉を写真DEに示すように咬合調整を行い除去しました。そして写真FGに示すように求めた下顎位で咬合出来るように下顎歯列にレジンスプリントを作成しました。その結果図Vー23に示すように症状の改善が認められました。これらの所見は診断学の定理と治療学の定理の有効性を示すものです。左顎関節にclosed lock状態が認められましたので図Vー24写真@ADEに示すようなピポット装置を作成し、左顎関節の牽引療法を行いました。そして写真BCHIに示すように咬合面に即重レジンや光重合レジンを添加し咬合関係の修正を行って行きました。写真Jに示すように与えた咬合位は下顎安静位から下顎神経の電気刺激により誘導された位置になります。写真Jは咬頭嵌合位、写真Kは最後退位を示しています。図Vー25・aに示す術後の筋電図所見では開閉口時、タッピング時、咬みしめ時、嚥下時とともに調和のとれた筋活動が認められます。図Vー25・bに示すようにここまでの治療でほとんどの症状は消退したのですが、図Vー26・bに示すように後頭部や後頚部の症状が完全にはとれない状態が続きました。症状の悪化が見られる時は図Vー18写真FGに見られるような不良姿勢を示していました。それで構造医学による頚椎整復や脊椎整復を行った所、ずい分症状に改善が見られました。この事により顎関節症の治療には顎関節の整復や咬合治療のみならず頚椎整復などの処置も必要不可欠である事がわかりました。構造医学整復により図Vー27写真@Aのように姿勢が良くなり全身症状の改善が見られましたが、このことは重力に対するバランスのとれた姿勢が大切であることを示しています。写真B〜Jは最終補綴治療後の口腔内所見を示しています。写真Kは咬頭嵌合位、写真Lは最後退位を示していますが、顎関節の修復が起こったためか後方へ移動量が最初の頃より減少していることが見られました。

この症例は私が治療した中でも困難な部類に入りますがなんとか治療を終える事が出来ました。診断学の定理と治療学の定理を信じて最後まで、信じる事が出来なければ途中で投げ出していたと思います。

さて症例1〜症例7まで様々な年代の症例を見て来ましたが、私は顎関節症というのはこういうものだと考えています。一つ一つの症例を見れば違っているように見えますが、その違いに注目するより共通点について考える方がより建設的であると思われます。これまでの症例の共通点は上顎に対する下顎の偏位が認められるということです。すなわち咬合位が不安定になっている為にどこで咬んで良いかわからない状態になっているのです。

従来の咬合位の概念としては、中心咬合位(CO)とか中心位(CR)とかがあります。私はこれらの概念がより実態を伴った意味がある概念に育っていくことが歯科医学の発展の為には、重要な事だと考えています。それでここまで言ってきた顎関節症に対する考え方をふまえて中心咬合位(CO)や中心位(CR)の概念を再検討してみたいと思います。そして咬合採得法の術式や再評価法そして咬合の再構成について述べたいと思います。

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