顎と体の健康の話 目次に戻る---------- ←前の章へ-------------- 次の章へ→---------------

II章:顎関節症とはいったい何だろう?

顎関節症はハッキリ言って我々開業医にとって治療の困難な病気だと思います。しかし一つの病気であるかぎりその原因が存在し治療法も存在すると考えられます。この病気の症状としては、顎関節痛や咀嚼筋痛,顎関節雑音,顎運動障害等があります。そして関連症状として頭痛,肩こり,腰痛,耳痛,耳鳴やめまい等があることがあります。さらに症状が重くなると、日常生活が困難になるほどの摂食障害や全身的な疲労感を訴えるようになります。この病気の治療として、咬合治療やスプリント治療が有効なことから、咬合が原因であるとかないとかがいわれていますが、私の治療経験から言えることは、咬合はこの病気の発現する場そのものであるということです。ですから結果であるものを原因であるととらえるならば問題の解決にはなりません。これはブラキシズムにも言えることです。ブラキシズムの治療にも顎関節症の治療と同様な顎位の修正や咬合治療が必要なので、ブラキシズムも顎位の偏位の結果生じる症状の一つだと考えています。最近学校検診で顎関節症の項目が入りました。以前は虫歯や歯周病や歯ならびだけでしたが、顎関節症にも早期発見、早期治療や予防が大切な時代になったようです。

それでこの問題を考えていくにあたり、まず学齢期にみられる顎関節症の初発症状を有する,つまり放置されたならば大人になって顎関節症になるであろうと思われる症例から考察を始めたいと思います。

症例1.側方交叉咬合(下顎側方偏位)

この患者は3才の女の子ですが、図Tー1写真@のように真直ぐ噛もうとしても写真Aのように左側に偏位してしまいます。ですからこの子はハイ噛んでと言いますと最初から左にずらして噛んでしまいます。歯列が写真BCのように完全にずれた状態で咬み合っていますので、咀嚼中枢内でのプログラムが左にずらして噛むようになっていると考えられます。ですからこれを放置するならば歯列はもとより、上下顎骨,顎関節や咀嚼筋の発育に悪影響がおよぶと考えられます。この時期に本人が症状を訴えているわけではありませんが、予防処置として保護者と相談して、写真@に示す上下顎骨の正中をあわせた状態で更正咬合をとり写真DEのような咬合面アンレーを作成しました。こうすると写真Fのように真直ぐ咬んだ所で安定しますし、写真Gのように左側方に偏位しても前と違って不安定な咬合位ですから,安定した写真Fの咬合位にもどることが安易になります。写真Hと写真I,写真Jと写真Kは術前術後を比較したものですが治療としては通常の虫歯の治療と同じような咬合面アンレーによる咬合の再構成を行い、予後管理としてはその時々の咬合調整と真直ぐ咬む練習を行えば良いと思われます。咬み合わせがずれた本当の原因は不明ですが、その原因の究明に時間を費やすより、今後の健全な発育に何が役立つかといった発想の方が重要だと思います。。

症例2.前方交叉咬合(下顎前方偏位)

この患者は5才の男の子ですが、図Uー1写真@のような下顎前突で相談に来院しました。この患者にリラックスした状態で(写真A)マイオモニターにより下顎神経を電気刺激し下顎のタッピング運動を誘発させ、マイオプリントで咬合採得を行うと症例1の更正咬合と同様な写真Bのような顎位が得られました。写真Cが研究用模型を咬合器にマウントした状態ですが、前歯が運悪く反対咬合になったため、下顎前歯が滑走して前方へ誘導されています。このことは著しく前歯が摩耗していることからも推察されます。写真Dが咬頭嵌合位の顔貌所見、写真Eが更正咬合位の顔貌所見です。一見して前者の顎位の低い事が明らかです。写真FGは咬合器にマウントした模型の側面図ですが、上顎前歯部や下顎臼歯部の異常な咬耗の為に咬合平面に凹凸が見られます。筋電図を用いて術前の咬頭嵌合位と更正咬合位のタッピング時の筋活動を比較すると、両者とも咬筋と側頭筋の活動は良好ですが、更正咬合位では、閉口時の収縮状態と開口時の弛緩状態の切り変えが明瞭であるのに対して、術前の咬頭嵌合位では弛緩している筈の開口期にも特に咬筋の活動が認められます。閉口筋の内、咬筋は前方運動に関与し、側頭筋は後方運動に関与しますので、この症例の咬筋の異常活動は前方交叉咬合に関係していることが推察されます。つまり本来の咬合位により常に前方へ位置付ける必要がある為に常に咬筋が働く必要となっているわけです。このような異常筋活動はブラキシズムにも見られる事がありますが、この症例においても異常な咬耗との関係が示唆されます。写真HIは不足部分を咬合面アンレーで補填した所ですが、こうすると咬合面がきれいにそろいます。写真J〜Mは模型と口腔内の咬合面観です。写真N〜Pは口腔内での正面観ですが、術前に見られた反対咬合の状態は改善され咬合平面はきれいにそろっています。写真Qは治療1年後の顔貌所見、写真R〜21は口腔内所見ですが、治療のかいあって、永久前歯の被蓋は改善され第1大臼歯も適切に萌出してきています。顎骨の発育には生理的な応力の負担が重要ですがこの患者は咬筋や側頭筋が調和した筋活動を発揮出来る顎位に修正されたために、顎骨の発育も十分に行われているように見受けられます。萌出した永久前歯に乳前歯に見られた咬耗も見られず臼歯部も含め全体的に安定した状態を示しています。

以上の2つの症例から考えられることは、何らかの原因で上下の歯にすれちがいが起った場合、そのすれちがった歯によって下顎が偏位し、ひいてはそれが原因となって、顎口腔系、つまり歯列、筋活動、顎関節の調和ある発育が妨げられる可能性があるという事です。その意味で適正な顎位による早期治療は有効であると考えられます。。

症例3.上顎前突(下顎後方偏位、側弯症)

この患者は学校検診で不正咬合を指摘された8才の女の子ですが、主訴は図Uー5写真@Aに見られるような上顎前突でした。写真BCの咬合面観では全歯牙が健全歯でした。写真DEの側面観では左側は下顎が近心咬合していましたが、右側は下顎が遠心咬合をしていました。この患者の場合顎関節の診査をしました所、右側の顎関節に雑音と運動障害を認めました。アキシオグラフ所見(下顎頭の運動経路)では右顎関節部に関節雑音の発生に応じた運動経路の異常が認められました。写真@Aでわかるように下顎の正中がかなり右側にずれていますが、これと右顎関節の障害の相関が認められます。つまり右側下顎頭が後方へ偏位したと仮定すると、下顎の右側方偏位の原因が説明可能です。さらに特徴的な所見として、写真F〜Hに見られるようないわゆる側弯症が見られました。一見して身体の重心が右に偏位しているような姿勢に見えます。ここまで来ますと、大人の顎関節症の患者さんに見られる所見とよく似ています。ただ違うのは本人が全身的な症状を主訴として持っていないことです。しかし、このまま放置していたのでは、本当の顎関節症になってしまいますので、写真Iのごとく下顎安静位を基本にした下顎神経の電気刺激方により求めた更正咬合位で、両側の咬筋でしっかりと咬めるように咬合調整を行いながら歯列矯正を行いました。術前の咬頭嵌合位と下顎神経の電気刺激法により求めた更正咬合位とでタッピング時の筋活動を比較すると、前者に対して後者の方が、リズム及び活動量とともに筋活動が良好に行われていることがわかります。症例2の場合は下顎の前方偏位の状態で咬筋の異常活動(閉口期と開口期の多重筋活動)が見られましたが、この症例では反対に下顎の後方偏位の状態で咬筋の筋活動の低下が見られました。矯正中、咬筋でしっかりと咬むように指導を行った結果、写真JKに示す咬合位で安定しました。咬合接触点も臼歯部で全歯牙に認められ、左右の咬合力バランスも良好(右55.6D、左44.4D)な状態を示しました(オクルーザー、プレスケール)。そして顎関節も回復が認められ、アキシオグラフ所見で右顎関節で関節雑音の発生を併う下顎頭の運動経路異常が消失し、左顎関節と同様な正常所見に回復しました。したがって術前にあった関節雑音も消失しました。これらの術前、術後の所見から、術前は写真Lに示すような最後退位で咬頭嵌合位が出来ていましたが、治療によって本来の顎位を獲得したと推察されます。そして、写真MNのように術前のせまいV字型の歯列に対してしっかりしたU字型の歯列になったり、写真OPに示すように下顎遠心咬合だった右側の上下歯列がより生理的な下顎近心咬合になったり、写真Q〜Sに示すように直立時の姿勢が良くなり、身体の重心がより正中におさまって来ている等良好な状態へと改善されました。このように偏位した顎位を修正すると全身的な姿勢が改善され、全身的な疲労感が軽減されることは、大人の顎関節症患者にもよく経験することです。我々生物は地球の生理重力下で生活しているわけですから、左右前後的にバランスのとれた身体構造や筋活動により、重力と争わず調和を保つ事が生きてゆく上で重要な事と思われます。つまり身体重心のバランスがこわれていると、常にバランスをとるために重力に逆うことになり筋肉は疲れてしまい、痛みやこわばりの症状となることになるわけです。この分野は構造医学という学問に詳しいので、顎関節症と構造医学という章で考察したいと思います。

症例4.開口障害(外傷性顎関節後方亜脱臼,顎関節内障、咬合不全)

この患者は15才の中学生の男子ですが、バスケットボールをしていて顎にボールが当たり、上下の歯の咬み合わせが合わなくなったのと、口が開きにくくなったため来院しました。最初に受診した総合病院の歯科で、咬合調整と筋リラックスの為のマイオモニターによる治療を受けましたが良くならなかったそうです。図@が閉口時の正面観ですが、開口しようとすると図Aのように左顎関節に痛みと運動障害が生じました。小中学生のクラブ活動時に頭やボールを顎にぶつけて亜脱臼を起こすことはよくあることなので、この患者も左顎関節の亜脱臼(顎関節内障)、つまり下顎頭の後方偏位による関節円板の前方転位と診断して、図BCで示すように左側にピボットを入れて左側下顎頭を右前下方に牽引しました。続いて図Dに示すように従手で整復を行いました。受傷後1週間以内であれば通常この整復法で整復が可能です。図Eに示すように開口量は50oに回復し、図Fで示すような右側方の運動障害も図Iで示すように改善されました。さらに術前に見られた咬み合わせの異常も左顎関節の整復と同時に解消されました。つまり左下顎頭の後方偏位でロックされていたために、下顎の左偏位状態で上下の歯がうまく噛み合わなかったのが左下顎頭がもとの位置にもどったため咬合状態ももとに回復したと考えられます。もしこの患者が整復を受けないで放置されたとしたらどうなったでしょうか。歯牙は持続的な圧力により容易に矯正作用を受けますので、上下歯列は左に偏位した状態でそれなりに噛み合うようになります。左顎関節はそのままclosed lock状態でいるか、click音を発生して復位するようになるかどちらかでしょう。しかしclick音を発生して復位するようになってもすでに上下歯列は円板が前方転位した状態に合うように圧下しているため、開口すると下顎頭は後方偏位を余儀なくされますので、いわゆる開閉口時に生じるreciprocal clickになると考えられます。症例3もおそらくはこのような経過をたどったのではないかと推察されます。

以上4つの症例を見て頂きましたが、すでに学齢期において顎関節症の初発症状を有している患者がいることを理解されたと思います。そして我々開業医はそれを早期に発見し悪くなってしまわないうちに早期治療による予防を行うという大切な社会的役割を担っているということも理解されたと思います。

最初に戻る